n寺の八十八カ所霊場の一つ一つの霊場はただお地蔵さんだけが安置されているとか、プレートがあるとかだけじゃなく、そうだと思って居たんですけど、それ違うくて、しっかりとお堂が建立されていて、しかも少なくとも四畳ぐらいは、あるんですね。そこに二つ、話しかけずらそうな仏様と話しかけやすそうな仏様が安置されています。お堂には「病気が癒えますように」という言葉をもっと文語調かつ四文字熟語的に書いてある付箋の上に折り紙のつるを張ってあって、その上に「検査順調」「検査良好」と付箋が張ってあって、ああ、此の人は大丈夫だ、そもそもこんな山の中をかき分けて歩いて行くのだから、此の人は大丈夫だ、と思わせる、それの横に「祈 合格 ○○○○」その上に「礼 合格 ○○○○」と書いてある、そうか、受かったのか。おめでとう。そしてお礼参りなんだね、そんな習慣があるんだね、と思いました。そのような習慣があることは興味深く、いいことだ、と思いました。二人いました。その付箋は、土佐(高知)についた辺りでなくなっていきました。
確か七番目あたりの霊場を表すお堂から、絵、というか絵画がお堂の中に展示されていました。その絵画は、おそらくゴッホっぽいポスト印象主義的な色彩感覚があってモダンな感があってこの旧跡感のある建物の中にひっくるめるって感じ、京都っぽい感じがあって、ナイス、って感じがあって、土佐(高知)あたりでなくなってしまいました。讃岐(香川)のところで時々復活したりもする。
お堂の一つ一つは一つ一つにやはり個性があって、僕たちは実は全く想像してなかったんですけど、僕たちはやっぱり本尊の絵だとか、お地蔵さんがこの山のいたるところに、道しるべ的に安置されている、それをたどって行く、ってのがこの寺の八十八カ所霊場だと思っていたんですけど、お堂の一つ一つが個性的で、六角形のお堂があってこれはこのお堂を三回回りなさいとか、お堂の中と外を隔てるなにやらモダンな柵があったり、天井に蓮がかいてあったり、龍のレリーフが掘られていたり、そういうことになっているお堂もありました。そういうお堂を一つ一つ見ていると、どっぷりって感じで、もう日が暮れそうになったんですよ。讃岐(香川のあたり)はちょっと飛ばし飛ばしで見ました。お堂それぞれの、熱の込め方が、違う。年代を見てください。
○これは昭和八年と書いています。昭和八年は日本が国際連盟を脱退した年で、すでに満州事変が起こっています。
○明治四十三年、明治は明治四十五年に終わるので、明治天皇が死ぬ二年前になります。
○大正十三年
一番古いのが明治四十三年なんでこの道はそのぐらいに整備されたのか、と思ったけど、天任○年?とかそんな年号があるのを発見したので、なんか江戸からあるっぽい。
青龍寺は四国八十八カ所霊場の三十六番にあって、やはり当然、n寺の八十八カ所霊場にもそのお堂があったんです。そのお堂だけ門があって、塀までありました。塀の外へ出られる扉があったので開けてみたらただ木と斜面だけがありつまりなにもなかった。(ドラム缶があった。)塀に隣接している建物はトイレで木でできた和式トイレと男性用小便機だったんだろうなー、っていう、地面には扉がありました。書きようによっては怪談にもなる。「私、トイレってなんか怖いんだよねー、おばけっていうか…、なんで怖いのかわかんないけど、」なんか僕も怖くなって来たよ。僕は井戸を見ると興奮するので井戸があれば井戸を覗いたり、おもしの石があって覗けなかったらその石を触ったりするんだけど、ああいうのに通じるよね、水気のものだね、風水的に。青龍寺を表すお堂は三十六番で、この山の山頂というわけでもなく、中途半端なところにあるお寺なんだけど、(まだ三十六番なの?)そういうところにいきなり、でかくて、トイレまでついていて、まあ朽ちてるんだけど、不思議だね。
さて、歩いて行こうね。ここを出るためにも歩くしかないんだから。君はなんだか全身を使って階段を登るね!体を屈めて、力をためて、その力で体を伸ばすことで山を登るね!ナイスだね!中学のときはいろんな山を登った。大した山じゃないんだけど、ハイキングで、昔の街道の道とか、いいんだよね。今なら山を登って、降りた後はお酒も飲めるし、好きなものも食える。山を降りた時のご飯がまたおいしかったね!山の途中のポッキーありがとうね!暮れる前に八十八カ所目について、良かった。あやうく、ヘッドライトが欲しくなるところだった。ヘッドライトってちょっと雰囲気出るけどね。昔富士登山したことがあって、一式買ったな。ヘッドライトして、山を登っていると、花火が下から見えるの。上は流れ星が見えた。八十八カ所目はさすがに大きくて、人も住んでいて、チャリが三つぐらいあって、子だくさん、猫もいる。お堂はちょうど暗くなって、ろうそくが灯ってるのが見える。ちょうどいい時間にちょうどいい暗さになって、よかったね。
日記
2014年10月20日月曜日
2014年7月16日水曜日
【ドリーミー】
スーパーでボブディランのライブ版が流れるので拍手の音がする。二ヶ月に一回山下達郎が流れる。ここ最近はUKロックが流れる。こんな暗い曲を流して大丈夫だろうか?レディオヘッドの最新作っぽい曲が流れる。割とドープなヒップホップが流れる。大丈夫だろうか?いつの間にか女子十二楽坊が流れる。これはわかる気がする。ジャスコを思い出す。アントニオ•カルロス•ジョビンが流れる。都会のスーパーというのであれば、ジョビンだけ流しておけばいいんじゃないだろうか?
つまり、選曲が適当なのである。まるで無意識そのものである。夢のようでもある。夢のようであるのは音楽だけであり、スーパーにはものすごい勢いで人が流れる。それすらも夢のようである。
スーパーでボブディランのライブ版が流れるので拍手の音がする。二ヶ月に一回山下達郎が流れる。ここ最近はUKロックが流れる。こんな暗い曲を流して大丈夫だろうか?レディオヘッドの最新作っぽい曲が流れる。割とドープなヒップホップが流れる。大丈夫だろうか?いつの間にか女子十二楽坊が流れる。これはわかる気がする。ジャスコを思い出す。アントニオ•カルロス•ジョビンが流れる。都会のスーパーというのであれば、ジョビンだけ流しておけばいいんじゃないだろうか?
つまり、選曲が適当なのである。まるで無意識そのものである。夢のようでもある。夢のようであるのは音楽だけであり、スーパーにはものすごい勢いで人が流れる。それすらも夢のようである。
『ライトハウス』
ずっと変わらずいられるのは
絶えず変わってゆくことだけ
そのまま心にのせていれば
なにかが変わる気がしたのに
誰もがいつのまにか
抜け落ちてしまうことがある
何か始めた時にあった
記憶特別な思いのうえ
築いた建物の中に囲まれていると
気づいてからは跡形もない
あんなに深い夜も
前を見てはじけてしまう
ふいに生まれた物語が
終わる頃には寂しくなる
つぶれたゴムまりを壁になげて
そのたびに拾いずっと繰り返し
一人で遊んでいる
時間が来るのを忘れたから
誰かが近くにいる
向き合って息をくらいて
飛び出した言葉さえ
違う国の響き
*
あるときAは、自分が言葉以外のものに包囲されていることに気づく。AとB、二人の言葉を介したコミュニケーションはこの場においてはマイノリティに属しているのだ。
「なにもうご飯?」とか、「痛いからやめなさい」とか、「ちょっと待ってなさい」とか「うんこ落ちちゃうから動かないで」などと言うのは、その意味が伝わるわけでもないのに、いちいちちゃんと言葉にしているのはどういうことなんだろうか。正直なところこっちも感情に任せて意味のない音を叫んでしまった方が早いんじゃないか。冷静に考えれば考えるほど、Aにはそう思えてくる。むしろ、そうやって言葉にしているのは、相手のためというより、まるで自分のため、自分を自分の理性の中に保護するための手段なのかもしれないーーーそう考えると話しかけることが演技じみてきて、自分としかしゃべっていないように思えてくるのだった。(「おでかけの感じ」荻世いをら)
2014年5月6日火曜日
金がない
給料をとりにいったら五万五千円だった。これから予定される支出として、家賃が、光熱費インターネット合わせて三万円、奨学金の返済が一万六千円、電話代他先月分のクレジットの引き落としが五千円以上はあるだろう、今確認したら六千七百円だった。クレジットの内訳としては、電話代が5000円(基本使用料+電話代1000円ほど?)と本一冊、先月はネットで本一冊しか買わなかったのか、九州では別府で二冊ほど本を買った。というわけで、これだけで五万二千七百円であり、残ったお金は二千三百円。金がない。金くれ。昨日給料をとりに行った。二時半についたので、社員の人は休憩に出かけており、その間に昨日見たチェーホフの「かもめ」が入った文庫本を探しながら時間を潰すことにした。どの本屋にもチェーホフはなくて、近くの図書館にいってもチェーホフはなかった。そもそもロシア文学のコーナーが少なかった。そのかわり平凡社のヴァレリー・セレクションがあった。クロソウスキーの『ロベルトは今夜』もあった。久しぶりにこの図書館に行くと、職員の方がいろいろ代わったように見受けられる。少し年齢層が高くなったようだ。給料をとりに行った。給料をとりに行って、家に帰った。家に帰って給料袋を見たら五万五千三百円入っていた。五万五千円。五万五千…。五万…。ゴ。とりあえず寝ることにした。山本精一の『nu frequency』というアルバムはものすごくいい。ギターベースドラムなどを自らすべて演奏するが、それは即興的であり、あまり構築を感じることがなく、適当な余地が音と音の隙間に開放感というか、オープンさを感じられるとてもいい音源となっていた。このような演奏は、構築に対して生成と言うのだろう、作品というよりも、生命体が蠢いているその活動、生物が生まれて、動いて、つまり活動して、終わる、というような、高橋悠治は保坂和志との対談で、このように述べている。(『文学界』2012年2月号)
ずっと気になっているのだけれど、山本精一さんは、高橋悠治さんのことをどう思っているのだろう?なんとなく気になる。給料袋を開いた。寝ることにした。山本精一を聞いて寝ることにした。戦略的撤退には山本精一の音楽はぴったりである。山本精一さんの音楽は言葉にしにくいけれど、それは、言語的な音楽ではない、と言ってもいいのかもしれず、それは例えば、夢などに近づいていくのかもしれない、だから、一時期たまに、スミンショーなどやっていたのだろう、寝ながらギターを弾くのを、お客さんは寝ながら聞くのだ。高橋悠治も、二十年前に「寝物語」とかいう、ものすごい曲を作っていた。寝ながら、藤井貞和の完全に寝ぼけてる詩を、寝ぼけながら歌うというものだ。これはしかし、客が眠るのには向かない。そういうのは少し戦闘的すぎる。今は寝ていたい。そうすると思ったりぐっすり眠ることができた。久しぶりに濃厚に眠れた。頭の中に汁が溢れ出しそうなぐらい寝た。起きたら菊地成孔を聞くことにした。山本精一は『ユリイカ』の菊地成孔特集で、菊地成孔に対して 「となりのクラスの気になるヤツ」的雰囲気って言っていたなぁ。今は菊地成孔を聞いている。山本精一と菊地成孔はどちらも多作家というだけでなく、活動の幅が対応しているような気がする、例えばROVOとDCPRG、あと文筆家でもある、が、やっぱり対照的で、菊地成孔は戦闘的だし、言語的で、自らも解説したりする。文章を書くのにどちらがはかどるか、といわれたら間違いなく菊地成孔の方であり、卒論の草稿を三日で仕上げた時も菊地成孔を聞いてあれは半分躁状態な感じで書き上げたんじゃないか。周りでは、かっこわるいけれどとてもいいものを作る人に好感を持つ人が多いけど、それこそ命がけでかっこつけて、そうやっていいものを作る人もいるわけで、それは命がけでかっこわるくてもいいものをつくる人と同じように命がけてるわけで、そういうところでハナについてしまうことは惜しい。山本精一の菊地成孔についての文章がある。(『ユリイカ』2006年4月号)
高橋 演奏中は集中していると思っている人が多いんだけど、実は集中したら演奏はできないんです。注意があらゆるところに散ってなきゃいけない。楽譜があって、鍵盤があって、自分の体もある。そのすべてが注意の中に入ってなきゃいけない。そういった外側と同時に、体の内側の状態、つまりどういうふうに力が動いているかにも注意しておく必要がある。実際にはなかなかできないんだけどね。でも、それは集中とは全然違う状態であることは確かです。
保坂 アルゲリッチなんかもそうなんですか。
高橋 人のことはわかりません(笑)。いや、アルゲリッチのピアノをいいと思ったことがないんでね。あれは近代的なんです。近代というのは、何というかな、速度とか力とかそういうものを使ってどこかへ行こうとする。そうではなく、どこにも行かないで漂っていたい(笑)。そのためには、外側と内側のバランスが取れてなきゃいけない。沈んでもいけないし、浮いてもいけないし、ちょうどいい位置で少しずつ揺らいでいくみたいな状態をどうやって持続させるかというようなことですよね。
ずっと気になっているのだけれど、山本精一さんは、高橋悠治さんのことをどう思っているのだろう?なんとなく気になる。給料袋を開いた。寝ることにした。山本精一を聞いて寝ることにした。戦略的撤退には山本精一の音楽はぴったりである。山本精一さんの音楽は言葉にしにくいけれど、それは、言語的な音楽ではない、と言ってもいいのかもしれず、それは例えば、夢などに近づいていくのかもしれない、だから、一時期たまに、スミンショーなどやっていたのだろう、寝ながらギターを弾くのを、お客さんは寝ながら聞くのだ。高橋悠治も、二十年前に「寝物語」とかいう、ものすごい曲を作っていた。寝ながら、藤井貞和の完全に寝ぼけてる詩を、寝ぼけながら歌うというものだ。これはしかし、客が眠るのには向かない。そういうのは少し戦闘的すぎる。今は寝ていたい。そうすると思ったりぐっすり眠ることができた。久しぶりに濃厚に眠れた。頭の中に汁が溢れ出しそうなぐらい寝た。起きたら菊地成孔を聞くことにした。山本精一は『ユリイカ』の菊地成孔特集で、菊地成孔に対して 「となりのクラスの気になるヤツ」的雰囲気って言っていたなぁ。今は菊地成孔を聞いている。山本精一と菊地成孔はどちらも多作家というだけでなく、活動の幅が対応しているような気がする、例えばROVOとDCPRG、あと文筆家でもある、が、やっぱり対照的で、菊地成孔は戦闘的だし、言語的で、自らも解説したりする。文章を書くのにどちらがはかどるか、といわれたら間違いなく菊地成孔の方であり、卒論の草稿を三日で仕上げた時も菊地成孔を聞いてあれは半分躁状態な感じで書き上げたんじゃないか。周りでは、かっこわるいけれどとてもいいものを作る人に好感を持つ人が多いけど、それこそ命がけでかっこつけて、そうやっていいものを作る人もいるわけで、それは命がけでかっこわるくてもいいものをつくる人と同じように命がけてるわけで、そういうところでハナについてしまうことは惜しい。山本精一の菊地成孔についての文章がある。(『ユリイカ』2006年4月号)
猛烈な整理分析力を持つ、アリストテレスみたいな人なんだけど、例えば倉地久美夫なんていう、とんでもない天然の才にもキチンと敬意をはらっているし、ロックが嫌いだとか言いながらも、彼の音楽には、僕は優れて「ロック的」なものを感じます。否、「主にロック的な世界観に濃厚に漂う香り」と言い換えましょうか。それは「エロ」です。「エロス」ではなく。身体性を持たない、観念的な「エロス」などではない、通俗的で、下世話ですらあるような「エロ」。菊地君は「あたまの世界」と「あたまじゃない世界」の両方から武器調達できる強みがあるのですが、彼の持つ「エロ」は時に、とても効果的に「あたまの世界」への戦略兵器に成り得ると思うのです。その精力の強度によってです。現場主義はもちろんキツい、そう生きなければならないことはあるけれど、自分の生を生き切るには思想だとか、自分の目で切り開くための批評の刃が必要だ、それはでも、自分の行動、パフォーマンスとの関係と切り離せない。身体を武器に、それでいて自分の思考のスジを通すことを、今考えていて、その一つがスノッブだったりするんじゃないか。背伸びしてみることだって必要なんじゃないか。自分の思考のスジを通すっていうのは、先の高橋悠治的に言うと、自分の浸透膜の位置を、内と外のバランスを考えて動いていく、ということか。そこで、例えばパフォーマンスが言語的ということは、言語というのはそのもので開かれているものだし、とりあえず意味が分かり、共通了解を得て、会話をしたりすることができる。それは批判やケンカをふっかけることができるということでもあり、そこにはやはり戦闘的な場所が与えられることになると思う。だから言葉には注意しなくては行けない。そして言葉はパフォーマンスだ。パフォーマンスは必ずしも言葉ではないことがあるが、言葉はパフォーマンスだ。身体で言葉をやりやったりもできる。そんな身体も一ヶ月二千三百円では維持することはできない…。金がない。今私には金がないのである。いつまでも給料日前の気持ちだ。全財産が二千三百円といっているわけではない、一万ぐらいはある。だからといってやっぱりダメじゃないか、これは金がないのである。金がない…。金をください。……。なんでこんなに金がないんだ!給料が五千五百円だったからだ。家賃と光熱費、奨学金、クレジットで給料は二千三百円になってしまう。タダで大根をもらえるツテはあるが、タダで大根をかじっても、一ヶ月、お金をつかわないわけにはいかない。大根をつかった料理はいろいろできるようになった。大根の煮込み、大根カレー、大根の漬け物、大根の葉っぱで炒め物もする。カレーを大根の葉っぱ焼きそばに入れて、つけめんにしてみると、とてもおいしかった。私の大根ライフは充実しているが、それでだって食費はかかる。本は図書館で借りよう、金がないから…。CDは友達を煽って買ったやつを借りよう、金がないから…。CDなら私の自治体の図書館でもレンタル可能であるが、借りたいやつはあらかた借りてしまった。金がないから…。本を売ろうか、金がないから…。でも売る本がない…。CDを売ろうか、でも売れる気がしない…。いっそ僕のグッツを作るか…。卒論売ります!小島信夫の『残光』という小説を論じたものですが、その小説の生成される空間について考えていくうちに即興音楽の話になったり、演劇の話をからめたりします!お願いします!僕の弾き語りのCDとか作ったら買ってくれますか!?
かつてのニューアカの人たちは「エロス」を語りましたが、「「エロ」を武器」にはできませんでした。「エロ」が無いとインテリにはなれても、スノッブにはなれないのです。婦女子、腐女子をカドワカスことができなければ、お洒落ではないのです。菊地君にはぜひ日本で最初の「本格の」スノッブになって欲しいですね。そういえばいないですよ、だれも、ね。ただのハッタリ屋はたくさんいましたけれどもね。そうそう、ちなみに僕は昔から、菊地君の顔が好きなんでした。
2014年4月6日日曜日
少し風邪
あれから風邪を引きまして…。いえ、大丈夫なのですが、今、昔ジャップカサイというバンドを一緒にやっていた飯島くんとお茶を飲んでいたら、ああ、おまえは元々こういうやつだったな、思い出したわ、と言われて、そういえば大学に入った当時はどうやら不健康な感じで、サークルの先輩にも飯島くんがいるのだが、最近会うと、「なんだかはつらつとしてるみたいで、顔色も良くなったみたいで、よかったね!」と言われたことがあるけれど、今は確かになんというか、ヘロヘロで、音楽などを聞きながら、ああ音楽が好きだったな、とか、でもこれも音楽が好きだったのか…、昔は確かに何をやるにも手応えがなく、どうしようかな、とりあえず研究者になりたいな、と思いながら本を読み、また本を読まずまったりと、まったりとはいうものの寝込み、マイルスデイヴィスや山本精一などの、いつまでも続くたぐいの音楽を聞きながら寝込み、あのころはまったりとかなんとか言っていて、もし昔の忘備録を引っ張りだすと、まったり、まったりだと一杯書いてある僕の想像だが、単純に元気がなく、しかし元気がないわけはなく、今思うと身体と心が一致していないというそういう時代、その時代は あれは年から年中風邪を引いていたようなものだったのか。
風邪の日はとんかつを食べて治していたような気がする、トンカツを食べにいこう。トンカツ…。綿矢りさの『憤死』を読んだ。綿矢りさがホラー小説を書いた、と聞いて気になって二年ぐらいブックオフで探したけど、ふとしたきっかけで図書館で借りてみた。中村邦生の『転落譚』を読んでみた。小島信夫に対する批評で名前を知っていたのだが、登場人物がある本の中から転落したので、元の本に戻るためにいろいろ思い出そうとしたり、思い出すために本を読んだり、引用したりする小説なのだが、よくこんな題材というか、システムで小説が書きつなげるなぁと思う。…と思ったけれど、できるのだろう。できる気がしてきた。『野犬飼育法』小島正樹さんという人が四十年かけて書いた本があって、昨日もおとついも風邪を引いていたのだけれど、風邪を引いていて、その、約束も果たせず、約束というか…、この本をずっと読んでいた。この本はおもしろくて、四十年かかっていた。のはいいとして、その、あの、さまざまな文章があった。さまざまな視点からのテクストがあった。長い手紙が送られて来たり、日記が展開されたり、独白が挿入されたり、地図があったり、さまざまな声がざわついていた。こういう本はいい。なんといっても、僕たちのまわりの世界に対してフェアだと思う。フェアっていうのはね、ショーキー、フェアっていうのは…、こういうのは変な勇気ある言葉かもしれないけれど、正義とかそういうものに関わってるものとして僕は使っているような気がするよ。ふーん…。飯島くんが出してくれたレコードはマイルスデイヴィスの『ダーク・メイガス』だった。こういうものを手に入れたんだよ。おお素晴らしいね!でもこれは聞かないでおこう、といって取り出したのがthe gentle peopleが作ったあなたの生活のためのサウンドトラックというLPだった。どこまでも甘く、軽くて、どんな映画を想定して作ったサントラなんだ…。俺は最近良く金縛りにあうんだ…、この間は天井を見ていたら蛍光灯にぶらさがっている線が揺れていて、気づけば天井の至る所から線が揺れていて俺の顔を撫でていた…気づいたら朝だった…。「そうか…。」どこかで書いたことがあるかもしれないが、最近山本精一を聞き直している。最近は音楽を聞いていなかったから、最近音楽を聞き直している。山本精一さんを好んで聞いている人は僕の周りでは、以外にも、あまりいないのだが、僕と同い年同学年の人は、それも僕の周りにはあまりいないのだが、同い年同学年ならだいたい山本精一さんのことが好きで、僕の知らないことを知っていたり、尊敬しているのが当たり前でしょ、という風な、少し怖い感じの人もいた。何年もハマっていると何年もずっと寝ながら聞いてしまうことになるので、風邪を引いた時ぐらいにしといて、そろそろ外の空気を吸ったり、バイトをしたり、いつまでも友達の家に泊まらずに、新しい部屋を決めたりして、自分のディレクションを決めたりした方がいいと思うが、ya-to-iのシークレットソングはいい曲だなぁ、と思って、羅針盤のファイアーソングなども聞く。こういう曲が好きだったなぁ…。
「答えはおなじみの
風にふかれてるけれど
いつかはみんなどこかで
それぞれの海に辿りついたら
歌うように話しはじめるだろう」
ひとつだけ見えない 星の中へ光がかくれてもそういえば今日は今、今!と言われ続ける夢を見たような気がしてきて起きた。ギターのボディーがはがれかけていてバネのようになり、アコーディオンのようにも見えなくもない、その響きを僕たちはおもしろがって、一人のダンサーがプリペアードギターだね、と言った。プリペアードギターって何?プリペアードピアノっていうのがあって準備しとくんだよね、ピアノの中に消しゴムとか入れたりして。「うむなるほどそうやって未知の響きをわれわれは追求し進んでいかなくてはならない!」「なんで?」僕ら人類はとりあえずこのような形で生き続けて来たのだから前進する運動は総体としては止めることはできない、そのことを認識した上で、何かやるならよし、それに抗うのもよし、避けることのできないものは避けられず、それに直面していない小手先のものはどこか冷める、くだらない…。文明が間違っていたということは誰でも言えることなのだ…。ああ、少し東京に行きたい、東京に行くとこういう友達がいてこういう会話をする人がいる…。かわいい…。
今はただ感じる 言葉を聞かせて…
言葉を聞かせて…
言葉で聞かせて…
ことから聞かせて…
ことだけ聞かせて…
ま「上野動物園とかさー、いきたいよね」
た「ああ、なんだっけ、パンダ?」
ま「パンダいまみられないらしいですよ、いきますか?」
た「うーん、博物館だったらいにますね、あの辺」
ま「博物館もいかなきゃだめですね」
た「えーと、去年はイカの展示をやっていて、ダイオウイカをみたんだけど、すごく、なんていうかな、こう、イカっぽかった」
ま「ダイオウイカって骨ですか?」
た「骨というか、死骸?ホルマリン付の」
ま「むかしのやつだよねー」
た「いや、いまのやつ」
ま「あ、いるんですね」
た「あ、北池袋だから、あれ?さっき南だったから、駅すぎてないですか?」
ま「え、そうだっけわからない」
た「いや、これは絶対すぎてるな、どっちだと思いますか?」
ま「あっちだー」
た「じゃああっちいこう、それで、なんだっけ?」
ま「え、なんだったっけなー」
た「あ、イカだ、イカじゃなくて、チョコレートもあったんだよ!」
ま「図書館とか、そういうののポスターがあって、無料券?ついてくるんだけど、やっぱりお金払っていかないとダメだな、行った気にならないな、そう思いました」
た「たしかに、そういえば昨日、図書館センターいきましたよ」
ま「ええ、営業ですか」
た「いや、世間話、ですかね」
ま「わたしもいきましたー!研修とか」
た「あのビルはさ、あれですよね、あの、なんていうか、マンション?オートロックで」
ま「そう、すごいの」
た「なんかむきちがうくないですか?」
ま「人いないねー」
た「人いない方が好き?」
ま「あ、そうお花見とかしたいんです、人いないところで、土日はダメかなあ」
た「あ、ぼくも、お花見して、花粉しょうだから、花粉症だなあってやりたい」
ま「え」
た「でもダメだ、企画力がまるでない」
ま「企画誰がしましょう」
た「にいくんがやるよ、めーるおくっときますね」
2014年3月18日火曜日
うどん
もし、何かを書くとしたら、きっとこのタイミングでしか書けない、明日はバイトがあってその後にライブがある、明後日はオフだけど、練習があるかもしれない。土曜日は餅つきをしていたが、その後平倉圭の『ゴダール的方法』を読もうと思ったけれど、笹山くんに飲まされてしまい、その後、飯島くんがシーケンサーを持って来てくれたので、シーケンサーという道具は、つまみがたくさんあり、ループを構築できる楽器で、なおかつシンプルでアナログだったので、とてもよく、ずっといじって楽しんでいたらいつのまにかこたつで寝ていたので結局シーケンサーというものは本当のところよくわかっていない。機械を扱うということで言えば、写真や映画にだって共通することがシーケンサーにはあるような気がして、それは例えばカメラはボタンを押したら写真ができるようにボタンを押したら音がなる、と言うと、当たり前のことかもしれないが、例えば絵を描こうとしたとして、筆を持っても何らかの能動的なビジョンなり対象なりがないと絵を完成させることは難しい。もちろん自動筆記のように、何も考えずに、連想で、どんどん書いていってヤバいことになる絵があったり、最近めっちゃ高いポロックみたいなアクションペインティング?みたいなやり方に明確なビジョンがあるのか、と言われたらまぁそれは書くことそのことがビジョンだよね、というところでどこか浅はかではあるもののビジョンなり対象なりがなく、あったとしても説得力を欠くそのような時代から生まれて来た表現としてそれなりの説得力はある。カメラというものはもうちょっと残酷でだってそもそも機械なんだからボタン押したらビジョンとか関係なしにとりあえず出て来る。関係なくぽんっと出て来たそれは、cmのようにちゃんと意味を持たせることもできるし、記号よりも記号っぽく見せることもできるだろうが、時々本当に意味不明で意図不明だけどなんか怖かったり、なんか笑けてきたりする写真があって、我々はそのような写真のことを「心霊写真」と呼んでいる。その心霊写真を撮るのがうまい男の子が最近東京から名古屋、神戸、三重を経由して僕が今住んでいる街に遊びに来たので、せっかくなので古本巡りをした。僕らが遊ぶことなんて古本めぐりぐらいしかないんだがいい古本がまったくなかった。ドイツロマン派全集が10冊ぐらいあってそれらが全部五百円だったので少し昂奮して僕は『無限への憧憬』という本を買ったけれど、まぁそれぐらいで、せっかくなので僕の本を彼に売ろうと思い売ったら四千円ほどになった。ねこじる全集が上下で2400円、『シュルツ全小説』が900円、あと岡崎乾二郎の美術の教科書みたいなやつが1000円ぐらいで売れてよかった。でももうちょっと売っても良かった。家に帰ってみると鍋があったので、念願の鍋ができる。鍋があるとみんな集まって来ておかしくなる。にいくんは京都に来たら絶対に呼ぶ子がいて、その子がいるとみんながなんとなくめちゃくちゃになるというか、そういうめちゃくちゃな子がいて、その子を呼ぶとなんとなくみんなめちゃくちゃになって来たのだけれどお酒も入っているのでよく覚えていない。厳密に言うと、意識はそんなにめちゃくちゃではなく、どちらかというと、はっきりしている方で、あまり厳密な言い方はできないけれど、ゴダールはブラキー教授に扮し「読むのではない、見るのだ」とシェイクスピアjr no5に言ったりしたりして、なるほど、おもしろいなー、というか『ゴダール的方法』めちゃくちゃおもしろいなーと思い、肌身離さず持ち歩き、バンドの練習中にも持って来たんだけれど、そんな時に持ち歩いても読める訳でもなく、その本はハードカバーにしても大きくて、重くて、バンジョーを弾いているテツオさんは、その本を評して「本という感じの本だね」と言うそのテツオさんが、近所にある居酒屋ゆきの二十周年パーティの時の写真をくれた。
「ふぬけみたいな写真だね」
と笑ったその写真を、くしゃくしゃにならないように本にはさんで帰った。この日はものすごいうまいすき焼きをくわしてもらったけれど、太鼓の皮が壊れてしまって大変な思いをした。
翌朝、めちゃくちゃな子と写真を撮る男の子とショウゾウさんとそば屋にいった。もうもはや胃がそばしか食えない。この三人で一緒に映画を見たはずなんだがいつの間にか眠ってしまった。眠っている間に笹山に頭を蹴られていたらしいがお互い覚えていないのでなかったことになろうとしている、その映画は淡々としているんだけれど、どこかずっと不穏な雰囲気で、何が起こっているのかもわからず、ただ建物が延々と続き、建物はマンション、というか団地?と中小企業、町工場というやつの工場と行き来して、たまに公園もある、そこを淡々と撮っていて、その中に人がいる、何をするわけでもないのだが、人がいて、でも、なんとなく人は気性が荒く、いまにもケンカでも始めそうな、そんな緊張感が支配する不穏なフィルムにくるまれて寝ていたらしい。
「僕は売れる小説が書きたいね。もうアルバイトしてもキッツキツの生活をしていたってやっぱり良くないので、なんとなく勝算というかできるもので何か生きていく形にしないといけないよね」
と言うと、一日過ぎて駅のエスカレーターに乗ったあたりで「『コインロッカーベイビーズ』みたいなん書くのはどう?」と言われた。『コインロッカーベイビーズ』?「『コインロッカーベイビーズ』みたいなものを書く器は僕にはないなぁ〜。」ところで昨日のことは小説になりそうだったんじゃない?おまえならどんな小説を書く?プロット考えてから、東京に帰ろうな。
「まず家に帰ると鍋が作ってあって、おお最高やんと思ってみんなを呼んで鍋を食べる。食べるというか、食べまくって、その後な、みんなでおはじきすんねんか。そしたらいつの間にかパッってあれ?天井や!ってなってその天井の描写を200ページぐらいすんねんか、そしたら鍋が作ってあっておいおい!食うぞ食うぞ!ってなってみんなで鍋食って〜、おはじきして〜うわ!天井や!っていう小説どう?うどん食いにいこう!」
「ふぬけみたいな写真だね」
と笑ったその写真を、くしゃくしゃにならないように本にはさんで帰った。この日はものすごいうまいすき焼きをくわしてもらったけれど、太鼓の皮が壊れてしまって大変な思いをした。
翌朝、めちゃくちゃな子と写真を撮る男の子とショウゾウさんとそば屋にいった。もうもはや胃がそばしか食えない。この三人で一緒に映画を見たはずなんだがいつの間にか眠ってしまった。眠っている間に笹山に頭を蹴られていたらしいがお互い覚えていないのでなかったことになろうとしている、その映画は淡々としているんだけれど、どこかずっと不穏な雰囲気で、何が起こっているのかもわからず、ただ建物が延々と続き、建物はマンション、というか団地?と中小企業、町工場というやつの工場と行き来して、たまに公園もある、そこを淡々と撮っていて、その中に人がいる、何をするわけでもないのだが、人がいて、でも、なんとなく人は気性が荒く、いまにもケンカでも始めそうな、そんな緊張感が支配する不穏なフィルムにくるまれて寝ていたらしい。
「僕は売れる小説が書きたいね。もうアルバイトしてもキッツキツの生活をしていたってやっぱり良くないので、なんとなく勝算というかできるもので何か生きていく形にしないといけないよね」
と言うと、一日過ぎて駅のエスカレーターに乗ったあたりで「『コインロッカーベイビーズ』みたいなん書くのはどう?」と言われた。『コインロッカーベイビーズ』?「『コインロッカーベイビーズ』みたいなものを書く器は僕にはないなぁ〜。」ところで昨日のことは小説になりそうだったんじゃない?おまえならどんな小説を書く?プロット考えてから、東京に帰ろうな。
「まず家に帰ると鍋が作ってあって、おお最高やんと思ってみんなを呼んで鍋を食べる。食べるというか、食べまくって、その後な、みんなでおはじきすんねんか。そしたらいつの間にかパッってあれ?天井や!ってなってその天井の描写を200ページぐらいすんねんか、そしたら鍋が作ってあっておいおい!食うぞ食うぞ!ってなってみんなで鍋食って〜、おはじきして〜うわ!天井や!っていう小説どう?うどん食いにいこう!」
2014年3月2日日曜日
きっと明日は書けないだろう。そう思うと今この時間に書こうと思い、まぁ、別に書かなくてもいいのだが、それでも、練習は大事だ、と思い、しかし書く前に福永信の『星座と文学』と木下古栗の『いい女vsいい女』の中に入ってる「教師BIN☆BIN物語」を読む。こういう本を読んでいると、まぁ、面白いし、文脈にも則っているので、面白いなぁ、と思うんだけれど、こんなものを読むぐらいなら、まず自分の文章でも書いていたほうが有意義なんじゃないかな?と思うけれど、僕はしょうもないものが好きだ、というか、最近、僕はしょうもないものにハマっている、というか求めていて、そういうモードで例えばタモリ倶楽部などを見て、特に何がおこる訳でもないが、癒されている、そういうものの中の一環として、こういう本を読んでしまうのだろうけれど、これはずっとYouTubeを見ているようなもので、ほとんど意味がない行為なのではないだろうか、と時々冷めることがあるが、現代的でとてもいいと思う。
ゴートを聞いてからというものの、最近現代的というか同時代的なものを聞いたりしている。ハピスエとか、古本をやっている友達が友達だとかいう、おいしいはなしだとか、古本をやっている友達の先輩だとかいう、トリプルファイヤーだとか、古本をやっている友達は本当に顔が広くて、ビックリする。先日、同居人が朝カフェしたいと言い、朝カフェに少しずつはまりだしたといえ、僕もそういうのが好きだから、この日に朝カフェしよう、とゆるく約束をしたその約束の日にそれぞれが昼の三時ごろに起きて、何事もなかったかのように私は本を読んでいると、それぞれが僕の家にあつまり出して来て、カフェ的なところで夕ご飯を食べにいこう、と提案する。カフェ的なところなので、フォークが使えるところ、フォークを使ってたべれるところがいい、と飯島あたりがしゃべりだしたので、やっぱり飯島はいいこと言うなぁ、最近飯島はなんだか僕のために生きてくれているような気がして、今まで彼にしてきたいろいろな悪い行い、ライブの約束をしたのにボイコットしたり、彼の作った本当に素晴らしい音楽を不当に酷評したり、彼がホームレスになる意志を固めた時にわざわざ僕の家に来てその決心を伝えてくれた後、ヤバいと思い僕の方から音信を断ったり、他にも彼にはいろんな悪いことをしてきたけれど、なんだか本当に素晴らしい人間に思えて来て、このブログで文章を書いているのを本当に喜んでくれたのも彼だし、そうだよな、フォークを使って食べような、僕も心底グラタンが食べたかった、と思いながらラインのやりとりをしてると、いつのまにか寿司にいくことになり寿司は本当においしかったが家賃が払えなくなり、寿司にいく提案をした笹山は心配して消費者金融の情報を持ちかけてくれた。彼が言うには、
1、クレジットカードは金利高杉なので、かりるんやっったらプロミスがいい
2、プロミスなら借りた分かえすだけである
3、プロミスはフリーターならすぐ貸してくれる
4、学生ではなかなか難しい
5、しかし、プロミスではポイントサービスというのをやらないとダメらしい
6、ノーローンというところであれば一週間以内の返済なら無金利らしい
僕は消費者金融には疎いので、そんなことがあるなんて知らなかった(電車の中吊りなどで何となくはしっていたけれど)訳で、いろいろ教えてくれてありがとうああ時間がない。とにかく、同時代的なものというのは基本的にヌルくて、退屈で、でももう仕方なくて、頑張って物語こしらえても、基本的に人間が分裂的になってきてるから、だって個性の尊重とかっていう教育を受けているのに就活ではみんな一緒の恰好をしたり、いやあ今度はニュースサイトみたいになってきたなぁ。まあ、一般的な傾向として、物語が非常に冷めやすい時代で、さてどうするか、という感じで、あるものを突き詰めてやってみた、っていうのがゴートだとか空間現代などで彼らは本当にかっこいい、トリプルファイヤーは、こういう仕方ない世の中の中にどっぷり使ってみた、という違和感系、ハピスエとかおいしいはなしとかは、もう開き直って退屈の中にいようって思って、いささかエピゴーネンみたいになりつつも、ストレートに同時代に突入していこうっていう系みたいなのがありつつ、飯島としゃべってて、今は世界的に音楽は死んでいる、そういえばレディオヘッドみたいな大きなムーブメントになるバンドは登場していないなぁ、って話が出て来たけど、今の時代音楽をやったつもりになるにしても難しいなぁ、と思っているんだけれど、失敗しない生き方というバンドの失敗具合が本当に絶妙で、よかった。佐々木敦は十年代のことをテンネンダイと読んでいて、天然とかけているらしいけれど、そうやって空気を読んでいるようで読んでなくて、ことごとく失敗していくんだけど何事か進行していくというのが光明なのかもしれないけれど、なんとなーく、確かに東京の人達の閉塞感と独特のダサさと狙いの読みやすさみたいなのが、なんとなーく、気にかかる、まあ僕は好きだけど、僕の周りは嫌いだろうなぁ糞アニメ見て産業スカムだ!って言って喜んでるみたいなねじれというか、僕はそこに喜びを見いだしているんだろうけど、どうやら狭いらしいので、違うのかなぁ、と思いつつも気にかかる、というか、うーん、音楽の話になってしまった。時間なので訂正することもできないし、よく見たらクサクサしてる…普通の人が誰にも教えずにやっているブログみたいだ…。
ゴートを聞いてからというものの、最近現代的というか同時代的なものを聞いたりしている。ハピスエとか、古本をやっている友達が友達だとかいう、おいしいはなしだとか、古本をやっている友達の先輩だとかいう、トリプルファイヤーだとか、古本をやっている友達は本当に顔が広くて、ビックリする。先日、同居人が朝カフェしたいと言い、朝カフェに少しずつはまりだしたといえ、僕もそういうのが好きだから、この日に朝カフェしよう、とゆるく約束をしたその約束の日にそれぞれが昼の三時ごろに起きて、何事もなかったかのように私は本を読んでいると、それぞれが僕の家にあつまり出して来て、カフェ的なところで夕ご飯を食べにいこう、と提案する。カフェ的なところなので、フォークが使えるところ、フォークを使ってたべれるところがいい、と飯島あたりがしゃべりだしたので、やっぱり飯島はいいこと言うなぁ、最近飯島はなんだか僕のために生きてくれているような気がして、今まで彼にしてきたいろいろな悪い行い、ライブの約束をしたのにボイコットしたり、彼の作った本当に素晴らしい音楽を不当に酷評したり、彼がホームレスになる意志を固めた時にわざわざ僕の家に来てその決心を伝えてくれた後、ヤバいと思い僕の方から音信を断ったり、他にも彼にはいろんな悪いことをしてきたけれど、なんだか本当に素晴らしい人間に思えて来て、このブログで文章を書いているのを本当に喜んでくれたのも彼だし、そうだよな、フォークを使って食べような、僕も心底グラタンが食べたかった、と思いながらラインのやりとりをしてると、いつのまにか寿司にいくことになり寿司は本当においしかったが家賃が払えなくなり、寿司にいく提案をした笹山は心配して消費者金融の情報を持ちかけてくれた。彼が言うには、
1、クレジットカードは金利高杉なので、かりるんやっったらプロミスがいい
2、プロミスなら借りた分かえすだけである
3、プロミスはフリーターならすぐ貸してくれる
4、学生ではなかなか難しい
5、しかし、プロミスではポイントサービスというのをやらないとダメらしい
6、ノーローンというところであれば一週間以内の返済なら無金利らしい
僕は消費者金融には疎いので、そんなことがあるなんて知らなかった(電車の中吊りなどで何となくはしっていたけれど)訳で、いろいろ教えてくれてありがとうああ時間がない。とにかく、同時代的なものというのは基本的にヌルくて、退屈で、でももう仕方なくて、頑張って物語こしらえても、基本的に人間が分裂的になってきてるから、だって個性の尊重とかっていう教育を受けているのに就活ではみんな一緒の恰好をしたり、いやあ今度はニュースサイトみたいになってきたなぁ。まあ、一般的な傾向として、物語が非常に冷めやすい時代で、さてどうするか、という感じで、あるものを突き詰めてやってみた、っていうのがゴートだとか空間現代などで彼らは本当にかっこいい、トリプルファイヤーは、こういう仕方ない世の中の中にどっぷり使ってみた、という違和感系、ハピスエとかおいしいはなしとかは、もう開き直って退屈の中にいようって思って、いささかエピゴーネンみたいになりつつも、ストレートに同時代に突入していこうっていう系みたいなのがありつつ、飯島としゃべってて、今は世界的に音楽は死んでいる、そういえばレディオヘッドみたいな大きなムーブメントになるバンドは登場していないなぁ、って話が出て来たけど、今の時代音楽をやったつもりになるにしても難しいなぁ、と思っているんだけれど、失敗しない生き方というバンドの失敗具合が本当に絶妙で、よかった。佐々木敦は十年代のことをテンネンダイと読んでいて、天然とかけているらしいけれど、そうやって空気を読んでいるようで読んでなくて、ことごとく失敗していくんだけど何事か進行していくというのが光明なのかもしれないけれど、なんとなーく、確かに東京の人達の閉塞感と独特のダサさと狙いの読みやすさみたいなのが、なんとなーく、気にかかる、まあ僕は好きだけど、僕の周りは嫌いだろうなぁ糞アニメ見て産業スカムだ!って言って喜んでるみたいなねじれというか、僕はそこに喜びを見いだしているんだろうけど、どうやら狭いらしいので、違うのかなぁ、と思いつつも気にかかる、というか、うーん、音楽の話になってしまった。時間なので訂正することもできないし、よく見たらクサクサしてる…普通の人が誰にも教えずにやっているブログみたいだ…。
2014年2月19日水曜日
ありもので…
今週はいろいろあったので、忘れないうちに急いで綴ります。急がないと本当に忘れてしまいます。こんな世の中なのできれいにノートとらなくてもいいんです!これぐらい!
14日
省略
15日
もちをつくようになる。もちつきはヘナヘナでも何回もついているとなんとなくうまくいく。いい音がなる。すごい。餅をついていると自然にめでたい気持ちになります。
僕がしているバンドに風の叉サニーというバンドがあるのですが、彼のバンドのCDを二十枚持っていく。喫茶店のトウゲンキョウで待ち合わせてバンドのCDを渡す。その間、ブロウコスキーの『パルプ』の続きを読む。その後EP-4unit3のライブを見に行く。goatというバンドがすごいよかった。同時代を感じる。ミュート音であるとか、やっちゃったハーモニクスだとか、まともでない音をこれでもか、と、挑戦的であるぐらい反復して、音を使い倒す人は、こういう現代で、だって、誰でも録音物を再生できて、音楽の途中で音楽を止めたり、変なところからまた再生したりして、そういうことをちゅうちょしなくなってくると、小学校の時にあんなに嫌だった音飛びだって聞けるようになったし、もしかしてdjとかやってる人は、そういう技だってしてるかも?だってそういうの絶対かっこいいよね、っていう、ね、こういう現代でさ、ちょっと出た変な音ささいな音もっと言うと音楽の秩序、五線譜とはイマイチ関係のない音を使い倒す、こういう発想は今の感覚としてものすごくリアルに思う。しかもそれがあんだけの緊張感であんなにかっこよくやられてしまうなんて!ちょっと僕の家の近所に劇場を持っている劇団地点でブレヒトの「ファッツァー」を上演してた時バックで生演奏をやってくれた空間現代というバンドを思い出した。音を音楽としてより、音そのものとして、素材として作品を構成させようという感じ、サンプリング、サンプリングなんて今時、当たり前じゃん、でも、サンプリングするということはどういうことなんだろう?サンプリングするという演奏方法は、音と音の関係性にどういう影響を与えるんだろう、と考えていくと、他にたくさんの音があったとしても、出す音はこの楽器の音だけでいい、この楽器の音をストイックにピッピッって出力しても、サンプリングの原理でやっていける、ってことを空間現代はやっていて、ゴートはさらにまともな音、五線譜の中で理解できるような音っていう意味だけど、それがなくてもやっていける、それらの反復で、あるものの反復でって、ていう意志があって、だってどっちもみんな凄みがあるもんねぇ。俺にはこのタマしかねぇ、この音しかねぇ、この素材しかねぇ、このモノを反復させていくしかねぇ、こんなに何もなくて、貧しくて、空虚なただ一つ、このモノだけしかなくても、すごいものは作れるんだぜ。たくさんの音楽を聞いてきた、見て来た。ほんとうにたくさんの音楽がある。あふれている。もちろんくだらないものもあるけれど、ものすごいいいものだってある、あふれている、そのものすごいいいものを見ていたい、(くだらないものだってちょっと見たい)でも全部は見れない、全部が見れないというその膨大さはネットを見れば分かる、ネットで音楽って検索したら何億件もヒットするそのことは物事が全部見きれないことの可視化なんだって佐々木敦さんは言ってたけれどほんとそうで、いよいよ、全部見きれないんだ、という断念、諦念、絶望?、そんな状況で、ちょっとした、なんでもない音、ジャンクで、ゴミみたいな音一発で頑張ってくれるなんて、僕って本当に勇気もらっちゃったよ。
××日
最近は少し喫茶ブーム気味。飲むよりも断然喫茶店の方がいい、頭も冴えるし、といって昨日はウイスキーをコーラで割って、デヴィット・リンチの「マルホランド・ドライブ」を友達が借りて来たので見たんだけど、デヴィット・リンチは実は苦手で、デヴィット・リンチの「ブルー」という映画を見ていたら、画面がずっと青のままで、どうしたんだろう、としばらく見ていると眼鏡が割れたことがあるのね。それ以来なんとなく怖くて、映画を一日に三本見ていた時期でもリンチさんの作品は見てなかったんだけど、「丸ホランド・ドライブ」はとてもおもしろかった!あれは人の立場とか時には役柄とかがどんどん変わっていっている(んだよね?)おもしろかった!それにすごいその場感、即興感があったと思ったらリンチさんもインタビューで音楽のように理屈をこねずに流れるように見てくれみたいなこと言ってるんだね!インタビュアーの人は「この映画のテーマはなんですか?」「この映画でいちばん言いたいことは?」「この映画の見所は?」とか聞くんだけど、そのたびにリンチさんがいやいやわかりやすく明確な意味があるんじゃなくて、作っていく過程そのもの、今ここで撮っているそのシーンに輝きがあるんだよっていちいち返さなくちゃいけなくて、ヒヤヒヤしたんだけれど、一時間二十分ぐらいのところで寝てしまった…。友達は十分ぐらいで寝ていた。四回見たけれど、全然内容を覚えられず、だけれど猛烈におもしろい!この映画は本当に見た方がいい!見よう!と言われ、教えてもらった、昨夜できたばかりの店「失われた記憶と百年の孤独」という店を出て、デヴィット・リンチの映画を見に行く。今までで僕はこの映画を四回見たけど、またレンタルしてん、四回みたけど、すごいごちゃごちゃして、何回みても、どこがどうなってるのか、あんまわからんねん!でも、そういうのが、おもしろいねん!そんな映画、いいやろ!?いいなぁ…。覚えられないのは、その場で今、まさに作っている、その感じなんだろうな、その渦中にあったら、その状況を外から見れる訳にはいかないし、要約することもできない…、何事かが必死に動き、働いているんだけれど。起きたら「静かに」と新キャラが出て来て、友達は「これからやで」っていうけど下からエンドロールが流れて来た。今日は寝て明日朝一時間二十分あたりのところからスタートしようということになって明日十時ぐらいに起きてそこらへんから見た。十七号室の中に入っていくところだった、こんないいところで寝てしまったのか…。ここから映画は真っ暗になってきて、それでねちゃったのかなぁと思うんだけど、ひげ面の男二人が、ほら、真っ暗だから見えて、かぶりついて二人テレビ見てたんだけど、なんだろう、あれは、ねえ?朝早く起きたから、っても十時だけど!コーヒーを飲んだりハンバーグを食べにいくこともできた!こういう生活、いいっすね!僕のバンドと対バンする計画を建てたり、今年は、自分から、向かっていければいいなぁ、と思っていますよろしくお願いします!
14日
省略
15日
もちをつくようになる。もちつきはヘナヘナでも何回もついているとなんとなくうまくいく。いい音がなる。すごい。餅をついていると自然にめでたい気持ちになります。
僕がしているバンドに風の叉サニーというバンドがあるのですが、彼のバンドのCDを二十枚持っていく。喫茶店のトウゲンキョウで待ち合わせてバンドのCDを渡す。その間、ブロウコスキーの『パルプ』の続きを読む。その後EP-4unit3のライブを見に行く。goatというバンドがすごいよかった。同時代を感じる。ミュート音であるとか、やっちゃったハーモニクスだとか、まともでない音をこれでもか、と、挑戦的であるぐらい反復して、音を使い倒す人は、こういう現代で、だって、誰でも録音物を再生できて、音楽の途中で音楽を止めたり、変なところからまた再生したりして、そういうことをちゅうちょしなくなってくると、小学校の時にあんなに嫌だった音飛びだって聞けるようになったし、もしかしてdjとかやってる人は、そういう技だってしてるかも?だってそういうの絶対かっこいいよね、っていう、ね、こういう現代でさ、ちょっと出た変な音ささいな音もっと言うと音楽の秩序、五線譜とはイマイチ関係のない音を使い倒す、こういう発想は今の感覚としてものすごくリアルに思う。しかもそれがあんだけの緊張感であんなにかっこよくやられてしまうなんて!ちょっと僕の家の近所に劇場を持っている劇団地点でブレヒトの「ファッツァー」を上演してた時バックで生演奏をやってくれた空間現代というバンドを思い出した。音を音楽としてより、音そのものとして、素材として作品を構成させようという感じ、サンプリング、サンプリングなんて今時、当たり前じゃん、でも、サンプリングするということはどういうことなんだろう?サンプリングするという演奏方法は、音と音の関係性にどういう影響を与えるんだろう、と考えていくと、他にたくさんの音があったとしても、出す音はこの楽器の音だけでいい、この楽器の音をストイックにピッピッって出力しても、サンプリングの原理でやっていける、ってことを空間現代はやっていて、ゴートはさらにまともな音、五線譜の中で理解できるような音っていう意味だけど、それがなくてもやっていける、それらの反復で、あるものの反復でって、ていう意志があって、だってどっちもみんな凄みがあるもんねぇ。俺にはこのタマしかねぇ、この音しかねぇ、この素材しかねぇ、このモノを反復させていくしかねぇ、こんなに何もなくて、貧しくて、空虚なただ一つ、このモノだけしかなくても、すごいものは作れるんだぜ。たくさんの音楽を聞いてきた、見て来た。ほんとうにたくさんの音楽がある。あふれている。もちろんくだらないものもあるけれど、ものすごいいいものだってある、あふれている、そのものすごいいいものを見ていたい、(くだらないものだってちょっと見たい)でも全部は見れない、全部が見れないというその膨大さはネットを見れば分かる、ネットで音楽って検索したら何億件もヒットするそのことは物事が全部見きれないことの可視化なんだって佐々木敦さんは言ってたけれどほんとそうで、いよいよ、全部見きれないんだ、という断念、諦念、絶望?、そんな状況で、ちょっとした、なんでもない音、ジャンクで、ゴミみたいな音一発で頑張ってくれるなんて、僕って本当に勇気もらっちゃったよ。
××日
最近は少し喫茶ブーム気味。飲むよりも断然喫茶店の方がいい、頭も冴えるし、といって昨日はウイスキーをコーラで割って、デヴィット・リンチの「マルホランド・ドライブ」を友達が借りて来たので見たんだけど、デヴィット・リンチは実は苦手で、デヴィット・リンチの「ブルー」という映画を見ていたら、画面がずっと青のままで、どうしたんだろう、としばらく見ていると眼鏡が割れたことがあるのね。それ以来なんとなく怖くて、映画を一日に三本見ていた時期でもリンチさんの作品は見てなかったんだけど、「丸ホランド・ドライブ」はとてもおもしろかった!あれは人の立場とか時には役柄とかがどんどん変わっていっている(んだよね?)おもしろかった!それにすごいその場感、即興感があったと思ったらリンチさんもインタビューで音楽のように理屈をこねずに流れるように見てくれみたいなこと言ってるんだね!インタビュアーの人は「この映画のテーマはなんですか?」「この映画でいちばん言いたいことは?」「この映画の見所は?」とか聞くんだけど、そのたびにリンチさんがいやいやわかりやすく明確な意味があるんじゃなくて、作っていく過程そのもの、今ここで撮っているそのシーンに輝きがあるんだよっていちいち返さなくちゃいけなくて、ヒヤヒヤしたんだけれど、一時間二十分ぐらいのところで寝てしまった…。友達は十分ぐらいで寝ていた。四回見たけれど、全然内容を覚えられず、だけれど猛烈におもしろい!この映画は本当に見た方がいい!見よう!と言われ、教えてもらった、昨夜できたばかりの店「失われた記憶と百年の孤独」という店を出て、デヴィット・リンチの映画を見に行く。今までで僕はこの映画を四回見たけど、またレンタルしてん、四回みたけど、すごいごちゃごちゃして、何回みても、どこがどうなってるのか、あんまわからんねん!でも、そういうのが、おもしろいねん!そんな映画、いいやろ!?いいなぁ…。覚えられないのは、その場で今、まさに作っている、その感じなんだろうな、その渦中にあったら、その状況を外から見れる訳にはいかないし、要約することもできない…、何事かが必死に動き、働いているんだけれど。起きたら「静かに」と新キャラが出て来て、友達は「これからやで」っていうけど下からエンドロールが流れて来た。今日は寝て明日朝一時間二十分あたりのところからスタートしようということになって明日十時ぐらいに起きてそこらへんから見た。十七号室の中に入っていくところだった、こんないいところで寝てしまったのか…。ここから映画は真っ暗になってきて、それでねちゃったのかなぁと思うんだけど、ひげ面の男二人が、ほら、真っ暗だから見えて、かぶりついて二人テレビ見てたんだけど、なんだろう、あれは、ねえ?朝早く起きたから、っても十時だけど!コーヒーを飲んだりハンバーグを食べにいくこともできた!こういう生活、いいっすね!僕のバンドと対バンする計画を建てたり、今年は、自分から、向かっていければいいなぁ、と思っていますよろしくお願いします!
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